『この世界の片隅に』“カープ女子”になったすずが“地続き”の理由
ドラマ『この世界の片隅に』(TBS系)が16日、最終回を迎えた。2016年に公開され、高い評価を得たアニメーション映画版を引き合いに出されることが多く、始まる前は期待と不安の入り混じった声が多かった今作。しかし蓋を開けてみれば、「地上波ゴールデンタイムの連続ドラマとしてこの作品を選んだ意義」をしっかりと感じられる作品になっていた。
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こうの史代による原作マンガの魅力は、戦争を物語の中で作用する“悲劇の道具”として利用せず、日常風景の描写を緻密に描いていった部分にある。ただその魅力は、作家の持つ卓越した表現力による部分も大きい。原作を読むと分かるのだが、一般的なマンガではあまり見られないような実験的な表現方法が多用されており、映画版はそんな“マンガとしての魅力”をも、アニメーションならではの表現を駆使して作品に昇華した印象だった。
では、「連続ドラマ」でこの作品を描く意義は何か? 制作陣が選んだのは、原作の中の“日常性”によりフォーカスを当てる、という手法だった。
戦時下という状況であっても「一人の少女が成長し、嫁ぎ、自分の“居場所”を求め懸命に生きていく」という点を重点的に、丁寧に描いてゆく。観ているうちに、同じく岡田惠和氏が脚本を手がけたNHK連続テレビ小説『ひよっこ』を思い出した人も多いのではないだろうか。『ひよっこ』もまた、立身出世を遂げた人物を主人公のモデルにすることが多い従来の朝ドラとは一線を画し、かつての日本を支えた“市井の人々”に焦点を当てた“群像劇”だった。
戦時下であっても、ただ暗く辛い日常を過ごしていたわけではない。人の営みがある限り、そこには喜怒哀楽の感情がある。ドラマチックな出来事はなくても、配給の品に一喜一憂し、恋の話にはしゃぎ、嫁姑・小姑の関係に10円ハゲを作る。そこにあるのは私たちと何ら変わらない愛おしい“日常”だ。
岡田作品の真骨頂とも言えるこういったシーンは、ドラマとしては地味に見える懸念もある。これが成功したのは、尾野真千子や伊藤沙莉といった実力派を脇にそろえたことも大きかっただろう。特に『ひよっこ』でも強烈な印象を残した伊藤のコメディリリーフぶりは、このドラマにおいてとても重要だったように思う。
そして。丁寧に積み重ねていった6話分があったからこそ、日常が戦火に壊されてゆく7話以降の展開がより胸に迫ることとなる。
賛否両論あった現代パートだが、過去の歴史を遠いこととして捉えがちな私たちにとって、歴史は地続きであり、そこには私たちと何ら変わらない人々の生活があったということを強く印象づけるためには必要な装置だった。