濱口竜介監督の“創作脳”をひも解く 物語やショットが生まれるのは「心のネタ帳」から
濱口:思い付きでやったものは少なかったように思います。基本的にはシナハンをして「ここでこういうショットが撮れるな」をある程度判断して、適切に準備をすれば力強い映像は撮れるはずと想定はしていました。
元々、この企画は石橋さんのライブパフォーマンスの際に流すものとして始動したため、基本的にはセリフのない状態で力強いものを撮っておかなければならないと考えていました。そのため、それを達成できるという目算があるものがシナリオに書き込まれていきました。先ほど挙げていただいたようなシーンですと「こういう道で撮ります」は撮影監督にまず共有し、スタッフ全体にもあらかじめ「こういう風に撮るので、準備をお願いします」とは伝えました。
――となると、シナハンないしロケハンの最中でインスピレーションを受けて生まれた撮り方も多いわけですね。
濱口:そうですね。それなりに即興的な思い付きはありましたが、その場で本当に思い付くというよりもここでも結局、心のネタ帳が関わってくるんです(笑)。「ここだったら、あのアイデアが使えるかも」という心の中のショットネタ帳をめくって掘り出して、スタッフに共有してカメラを構えてもらったシーンもあります。
――濱口監督のネタ帳には、物語的な部分やビジュアル的なものなどさまざまな分野があるのですね。ちなみに本作のサウンドデザインはいかがですか? 環境音が絶妙でしたが。
濱口:あの時期の撮影エリアはマイナス10℃くらいで、まずもって人間がほとんど活動していないんです。そのほかの生き物も恐らく活動を低下させているでしょうから、基本的にはめちゃくちゃ静かな環境でした。録音・整音の松野泉さんとも「全然音がしないですね」という話をしたことを覚えています。とはいえ人が動けば枯れ枝を踏むような音は録れますが、完全に静かな状態だと映画的な緊張感は保たれません。そこで松野さんと共に「ここに鳥の声を入れましょう」などなど、緊張感が途切れそうなところで環境音を調整したり増やしてリズムを付けていきました。
――『ドライブ・マイ・カー』もそうですが、『悪は存在しない』の車の走行音がとても心地よかったです。何かこだわりはあるのでしょうか。
濱口:ありがとうございます。そこまでのこだわりはないのですが、音周り全体の意識として「どのあたりが耳に気持ちいいか」という判断はそれなりに行っていて、その上で「ここの音域を厚くして、ここの音域は絞る」といったことはお願いしています。ただ、録音部が元々作ってくださる音がしっくりくることも多いです。
――『悪は存在しない』では、劇伴がフェードではなくぶつりとカットアウトされる演出をされていますよね。気持ち悪さが気持ちいいといいますか、見る側がそこに何らかの意味を感じる効果が絶妙でした。
濱口:今回のように音をぶつっと切る演出はさまざまな映画で行われてはいますが、今回は先ほどお話しした環境音を聞かせることとの合わせ技です。石橋さんの音楽は本当に美しくて使いたい気持ちは山々だけれど、音楽と映画があまりに同調しすぎると、映画と音楽両方にとって、というか観客の体験としてよくないだろうと感じていました。音楽にはメロディーがあり、回帰するリズムが必然的に聞く人の期待を生みます。となると、劇伴が流れている状態では人は音楽を聞く耳になっていく。そこで突然音楽が断ち切られると、環境音を生々しいものとして捉える効果がある気がしていて、今回実践してみました。そしてまた、ブツ切りした瞬間に音楽に向けられて高まった観客の感性が環境音に対して向けられるのではないかと。そういう狙いをもって、あのような形を取りました。
――濱口監督は先日、Letterboxdのインタビューで人生の4本に『ミツバチのささやき』『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』『風と共に去りぬ』『東京物語』を挙げていらっしゃいました。観客として、作品選びの際に重視するポイントはございますか?
濱口:面白そうかどうか、でしょうか(笑)。ただ、見る側として前もって意気込んでいくというより、そんなに前情報なく、映画館の良い椅子に座って「さぁ、どんなものを見せてくれるんですか」と思って気付いたらのめり込んでしまったものの方が、心に残るようには思います。
改めて思うのは、映画というものは本当に1本1本がまちまちだということです。同じようなショットや画や音の構成をしていたとしても、ほかの映画ではうまくいっていないけどこの映画では成功している――といったことは多々ありますよね。それがどの段階でそうなるのかは、究極的には分かりません。ただ、自分が本当に良いなと思ったものに関しては、心のネタ帳に書き込んで「どうやったら同じような、もしくはちょっと違ったとしても自分の作品にとって良い効果が生まれるか」を考えていきます。
――本日のインタビューは「心のネタ帳」に尽きますね。ちなみにそのネタ帳は、今現在も更新中なのでしょうか。
濱口:はい(笑)。映画を見ていても更新されますし、いまだに映画を撮るとその都度ものの見方が変わっていくところがあります。同じものを見ていても今までにはなかった視点が生まれてくるため、ネタ帳は随時更新し続けていますね。
(取材・文:SYO 写真:上野留加)
映画『悪は存在しない』は全国公開中。